ポップに心を削られて

ポップに心を削られたマチ子の日記です

贈り物は誰も知らない

年末年始の贈り物の総称が「冬ギフト」と呼ばれるようになって、ずいぶんと久しい。

名前の通りに儀礼的でフォーマルなものよりも、もっと気取らないカジュアルなギフトがここ最近のトレンドだそう。

ネットを見ていても手軽ながら上品な品がたくさんヒットしたうえ、なんと駄菓子の麩菓子もあった。

私も毎年、年末から年始にかけてクリスマスプレゼント・お歳暮・お年賀、などといったふうに色んな方にギフトを贈らせていただいている。今年もそう。

こういう機会でないとなかなかご挨拶をしなくなってしまった方なんかもいるので、一人一人を想いながら贈り物の準備をするというのは、何とも胸が膨れるものがあります。

ギフトを選び、それぞれに送り状を書く。コロナ禍とはいえ師走で街中がなんとなく慌ただしい中、この一年の感謝と思い出を振り返り相手を想う時間は、非常に濃密で唯一心が休まるときであった。

しかしながらこういう儀礼的なものだったら何とでもなるのだけれど、私の場合、何だか「プレゼント」というものに関してはまったくもってセンスがないように思えてならない。

一つエピソードをあげてみると、数年前の今時分、知人女性が近頃どうにも体調が優れないという話をしていた。

せめてもの気持ちをメッセージ(LINE)として送ったものの、実際のところ遠くに住んでいるものだからすぐにはお見舞いに行けない。

ともなると、今すぐ自分に出来ることはお見舞いの品を送ることだった。

彼女から得た情報は「食欲もなくてね、とにかくすぐに横になるようにしている」だったから、食べ物はやめて時期的にブランケットなんてどうだろうという、わりにシンプルな結論にいたった。

さらに気丈で働き者の彼女が、「毎日退屈で気が滅入るのよね」と幾度となく言っていたのがとても印象に残っていたから、せめて使っていてウキウキするものが良いであろう。

だからシンプルなものよりも、出来るだけ可愛いブランケットを。そうして色々と吟味したためにとても時間がかかったのだけど、なんとかその日のうちにネットで注文をした。

ところでネット注文だから、本来送付先もそのまま相手の自宅で良かったのだけど、私はどういうわけだか変なところで神経質な性質(タチ)でして、自分自身で「検品作業」をしないと気が済まない。

どういうことかと言えば、効率も悪いし送料も余計にかかるとわかってはいるものの、しかと自分の目で「やれ包装はしっかりなされてあるか」「やれ領収書は入れるなと言ったが、本当に約束は守ってくれているか」などといったことで、もうここまでくると神経質っていうよりはただの人間不信なのだけど、当時はその丁寧さ(と言ってもいいよね)がとても仇となりました。

というのも店舗からそのまま相手宅へ直送だと諦めもついたと思うんだけど(贈り物でこんな言い方もなんだけど)、いざ自分の手に届いてしまった途端、困ったことに色々と不安になってしまった。

注文したブランケットというのはあまり見ないデザインで、大判サイズのケーブルニットに上下に大きなポンポンが沢山付いたような、いささかほどにメルヘンなものであった。

もちろん良かれと思って注文したのだけど、よくよく考えてみたらいくらウキウキするような可愛いものをとは言っても、こういう「デザインのあるもの」っていうのは好みがあると思うし、そういえば相手宅のインテリアまでは知らないのである。

ネットの参考画像も、ハイバックのソフトレザーかなんかで、なんていうか、いかにも高級ホテルのようなグラマラスでラグジュアリーなベッドにそのブランケットが「ふわぁ」と掛かっていたものだから、当然心を奪われて「これは絶対にグレイト!」なんてつい盲目的な勢いでカートに入れてしまった。

だから好み云々の前に、こんなメルヘンなものを送りつけておいて、実際の自宅のインテリアが下にすのこなんて敷いてあって万年床だったとしたら、ミスマッチにもほどがあると思ったわけです。

それだったらまだ良いと思うんだけど、万が一寝室が畳とかだったら絶対に合わない。

それとは逆に、もし(ないとは思うけど)宮殿のような豪壮な御邸宅だったとしても、そういう家のインテリアは大抵アンティークであるといった風に相場は決まっているから、やはりメルヘンなブランケットは絶対に合わないデザインなのである。

さらには、ニットのブランケットなんて擦れてすぐに毛玉が出来てしまうんじゃ・・・?とまで考えてしまうと、怖くてとうとう送れなくなってしまった。

そう考えると、贈り物っていうのは難しいとつくづく思う。

最低限センスと配慮が必要だし、あることによってはマナーだったり、逆にタブーもあり得る。贈るタイミングだって考えなくちゃいけない。

だから以上の反省点をふまえ、今後この課題をどう追求していくか・・・

なんてそんなことを考えたことはやっぱりないんだけど、でもじゃあ今回の反省を生かして更にあれこれネットで見てみても、やっぱりどうにもしっくりこない。

そうしたらそうこうしている間に、こちらはLINEだけだったにも関わらず、相手の知人女性が

「励ましのメッセージありがとうねぇ!お陰様でだいぶ良くなりました!」

なんて家に手紙とギフト(梨をたくさん貰いました)まで寄こしてくださったものだから、普段こちらは色々としていただいたり気にかけてもらっているにも関わらず、何だかただの薄情者で終わってしまったというわけです。

まさか今更になって「実はメルヘンなブランケットを・・・」なんて言い出せるわけじゃないし、うーん、じゃあどうしようなんて思った結果「最近はご飯がとっても美味しく感じます!」なんて聞いてもいないのにキュートな一文が書かれていたものだから、「これは絶対にグレイト!」と思った魚沼産コシヒカリを注文して送らせていただいた。(相手宅へ直送)

米が嫌いな日本人はそうそういるまいし、食べ物ならずっと残るものではないから、こちらとしても贈りやすい。

こんなふうに私は昔からこういったことが非常に多い。

なんていうかどんくさいのか要領が悪いせいか、余計にあれこれ考えすぎてしまうせいか、人よりテンポがだいぶ遅れているし、「よし!」と腹を決め全ての段取りを済ませた頃には大抵全てが終わっている。

だから自分としてはとても盛り上がっているつもりなのだけれど、本当は裏ではこんなにドラマチックな人情劇が繰り広げられているなんてことは誰も知らないのである。

知らないどころか、逆に薄情者や無精者に思われている節があるかと思うと何だかちっともやり切れない。

兄でさえ、よく「お前は昔から人の寛容さにあぐらをかきすぎているうえ、まるで怠慢が天職のようだ」とか言ってくる始末なのである。

あー、男性にはわかんないんだよな、こういう気持ち。

 

ところでそのメルヘンなブランケットはどうなったかというと、もちろんそのままにしておくには勿体ないので自分で使っています。

なんだか悔しいから夏でも出しっぱなしにしていて、「どうせすぐに毛玉だらけになるんだろう」なんて思っているから非常にガサツに扱っているのだけれど、数年経った今でも毛玉一つ出てきやしない。

洗濯だってクリーニングには出さずに、家のドラム式標準コースでガチャガチャ洗っているのだけれど、いつでも「ふわぁ」としていてメルヘンなので、「やっぱりこれはグレイト!」なんて思ってしまう。

そんなわけでなかなかどうして、このメルヘンなブランケットが自分的に近年稀にみるベストバイらしい。

やっぱり贈っておけば良かったなあ。

言わば始まりの、東京タワー

先日、昔通っていた大学の近くで用事があったので、久々に都内まで足を運んだ。

昔と違うのは、電車ではなく車だということ。

学生時代なんて、いつも満員電車に揉まれて心底嫌気がさす毎日だったけど。

それでも「昔みたいに電車で来れば良かったかな・・・」と多少なりともウエットな感情を抱いてしまうのは、昨夜黄昏と共にライトアップされた東京タワーを眺めていたからではない。

 

大学の近くになんてもう一生行きたくはないなぁなんて思っていたのは、劣等生だった自分の残像があるからでも、雑作なく捨てた恋愛を置きっぱなしにしていたからでもなく、親の期待に応えられなかったから。

一言でそう言ってしまえばまだ単純かもしれないけど、でもその感情の中にも色んな事情があった。

わりとそこら辺は苦い思い出ばかりで、例えば友人関係なんかもそう。

当時私は大学とは全く関係のない進路に進もうとしていたし、何なら大学なんかやめてもいいとさえ思っていて。

同期たちと違う進路に進もうとしている自分がとても滑稽に思えたし、自分が勝手に選んだ進路にも関わらず、勝手に疎外感みたいなものを感じてた。

本当に自分がダメなヤツに思えたし、この期に及んでまだ自分の好き勝手に生きたいと思う気持ちが、安易な「ガキの地団駄」に思えて。

両親は進路についてはずっと自分の好きなようにさせてくれてたから、そもそもレールを外れることに対して「ガキの地団駄」なんて思うのはちょっと違うのかもしれない。

もしかしたら大学なんて行かなくてもそれはそれで許してくれたのかもしれないし、勝手に自分がそう思い込んでいただけで。

でも事実学費はかかっているわけで、そこについて申し訳ない気持ちがまったくないわけではなかった。

お金を奪うことは時間を奪うことと同等、もしかしたらそれ以上の罪だから。

でも、それでも、私は自分の置かれたレールの外に見つけた、発揮性の儚い、でもだからこそ力強く輝く希望に、抵抗のしようがなかった。

 

あの頃、毎日東京タワーを眺めていた。

太陽が天頂を通過し、安らかな日陰を作る昼間の東京タワー。

黒ずんでいく黄昏に因果し、浮かび上がり装飾されていく、夕暮れ時の東京タワー。

よどんだ都会の暗闇を原色に染め上げる、煌びやかな夜の東京タワー。

そして中でも一番好きだったのが、雨に滲んだ夜の、灯が濡れる東京タワー。

悲しい自然の雨に反した煌びやかで人工的な東京タワーは、裂けるように相反していく私の心情を表しているようで、いつもとても切なかった。

 

日々自分の知らぬ間に、知らぬところで露呈していく罪悪感と寂寥感。

自分ではその心の渇きを抑えることは、とても難しかった。

既存のレールに乗ってしまえば楽なのは分かっていても、そのレールに乗ることが自然なのだと分かってはいても。

名状しがたい理性に淡つかに心は奪われて、いつしか心のかさぶたが頼りない護身服のようになってた。

それは傷を負うのは自分ではないはずなのに、孤独ぶりたがりの悲劇のヒロインにでもなったかのようで。

両親に対する罪悪感は募っていくばかりだし。

ましてや友人に対する疎外感は、まるで底知れない夜の海に一人で放り出されたようだった。

いつからか、本当に知らぬ間に

「テストが終わったらまた飲もう!」

そのたった一言で分かり合えるような仲ではなくなってた。

仲間外れとかイジメとか、そんなんじゃない。

沈黙を越えた絆が、苦難に乗り越えられなかっただけで。

「進路」という溝は、自分が想像していたより遥かに深く、とても克服できない孤独感だった。

 

そして自分の理解と相反してせめぎ合うちょっとした希望は、心の糸が緩んだ瞬間、たちまち色彩を増し始める。

それも人工的な光を孕んで。ものすごいスピードで。

まるでスカスカな網の目にでもこびりつくように亀裂を満たしていく希望は、無味な私の心をいつも豊かにさせた。

掴みどころのない不安感や出どころ不明の寂寥感が練られた擦りガラスが、たちまち鮮明になり始める。

とても不思議だった。

そして満たされた希望は、いつも自分じゃないような気がして新鮮だった。

合わない湿気を多分に含んだ暗闇の、ほんの一点に点じられる微かな光。絡まるように交差していく罪悪感と、ささやかな充足感。

進路に悩む自分と、レールの外に希望を見出す自分はまったく違う人物だった。

 

結局私は自分の希望する進路へ進んだのだけど、全ての感情を克服できたのかというと、決してそうではない。

たまに思い出してはとても苦い顔になるし、深い郷愁に触れ胸が締め付けられることも実は少なくない。

しかし当時苦楽を共にしてきた同期に今会ったとして、再び沈黙に加え時間を越えられるかと聞かれればそうではないと思うし、第一合わせる顔もないのは現時点では明らかで。

素手で殴り合えるのはまさにあの時だけだったのだと、あの時しかなかったのだと気付いた時には遅かった。

今なら何を言ったところで後味の悪い、互いにとっても消化不良のいがみ合いにしかならなそうで。

延々と石投げが続くような討論は、小学生よりも幼くて始末が悪い。 

だけど、それでもいつかは10年20年かかっても、あの時みたいに沈黙を理解と希望で満たせたら。

そんな都合の良い夢を見てしまう。

 

悔恨、罪悪、憂苦。

全て一枚一枚の薄紙を剥ぐように、時折剥ぎ目が分からなくとも「それでもなお」と、少しずつでも白んでいくようにやってきたつもりだけど。

これで良かったかなんて一生分からないと思う。

それでも今は、夢の中で空足を踏むような焦燥に惑わされていたあの時とは、まったく違う。

それこそ「希望」なんて大袈裟に言うつもりもないけれど、行き詰まりではないしもちろん暗闇でもない。

 

たぶん、今は「黄昏」なのだと、夕暮れに溶ける東京タワーを見て初めて感じた。

無論それは終わりではなく、よどんだ暗闇を原色に染め上げるための準備期間。

言わば始まりである。(そうじゃなきゃ困る)

酒と孤独はマリアージュ

何日ぶりかも忘れてしまったくらい。

気まぐれで久しぶりにテレビを点けたが、ガヤる音に耐えきれずすぐに消した。

これと言って見たい番組も特にはないし、ニュースはもっぱら新聞かネットだし。

独り暮らしなので、部屋がとにかくいつも無音。

話し相手が欲しいわけでも、笑いたいわけでもなく、ただ時折濃密なまでの無音に耐えられずにリモコンに手が伸びる。

しかし画面から光源が自分に浴びせられた途端、空間に立ち上がるのは女のキンキンした作り物のような笑い声。

更にはデジャブと言ってもいいくらいの、ありきたりでくだらないシチュエーションコメディ。

反吐の出るような「ウザさ」に辟易して、それならば艶のある平坦なアクリル(テレビ画面)でも延々と舐めていたほうが随分と有益だと苛立つ始末。(嫌味)

そして結果、やはり無音を選ぶ。

 

暗くなったテレビ画面に映る真っ黒い自分は、いわゆる「キラキラ」した世界にのけ者にされた自分をまざまざと見せつけられているようで、とても無様。

日常に忙殺され、肉でも刻むかのようにだんだんと鈍くなっていく心も相まって、機微も感覚も全てが薄黒く染まっていくばかりなのだけど。

それでも結局のところは1人の方が好きで、濃く煮詰まった無の空気に身を押されながらも、この時期冷え切った身体に更に氷点下のハイボールでも流し込んだほうが、幾分か心は温まる。

そしてアルコールと孤独が凝結され、その結露によって日頃乾きがちな心がたちまち潤いはじめる。

 

1人で部屋にいると、もしかすると世界はとっくに終わっていて、このベッドの上に横たわる自分は異次元から見た残像か何かなのではないか、などと思ってしまうことも少なくない。

今キーボードを打つこの「時間」さえも、恐らくは残像か何かだったりして・・・なんてことも、意味もなく延々と考えてしまう。

一歩外へ出てしまえば自分以外の皆、いわゆる世間様は温まる暇もないほどにせわしなく動く時間と絡み合い、せっせと働いているわけで。

そんなことを考え出すとまるで、海は無限に広がり、空は限りなく高く無重力さえも存在するというのに、自分だけが暗く狭い野末に立たされているように陳腐な被害妄想を描く始末。

そんな自分とは全く軸の違った世界に、たまには孤立感を抱くこともある。

ただ世間とはリズムが違うだけで、まぁ無職というわけではないのだからただの考えすぎだとしても、なんとなく、置いてきぼりのような気もしていてちょっと寂しい。

とは思いながらも、結局は孤独を酒で流し込みグータラ寝るのだけど。

そういうあまのじゃくな女なんです。

 

そんなんだから、なんていうか、とにかく人が苦手。

極力話したくないと思ってしまうし、よっぽど気を許している人以外はLINEも返信するまでにだいぶ寝かせるタイプ。(滅多に来ないけれど)

今現在友人も片手で足りるほどに少ないけれど、自分にはそれで十分すぎると思ってる。

一対一は得意ではないし、かと言って二対一とかもあんまり。

贅沢を言えば十対一とかで、席のコーナーでバレないように俯瞰してたいタイプ。

そもそもそんなに大人数の集まりには行かないし、呼ばれもしないんだけど。 

 

故に人ごみもあまり得意ではない。

週末、まるで街路を黒雲で埋めるようにごった返す繁華街には絶対に行きたくはないなぁと思うし、週末は極力出かけないようにしているつもり。

そして仕事柄、週末がとても忙しくなるから月曜日が来ると途端に心が緩む。

世間でいうところの月曜日の憂鬱が「マンデー症候群」ならば、こちらでいうところの憂鬱は「フライデー症候群」。

となると、たちまち華金という文字が呪いの装飾でなぞられ始め、世間の「お囃子」に焦燥感が募る始末。

自分にとってブラックタイムとはまさに週末のことで、日曜日の深夜、時計の短針が日付平行線を越える頃になってようやく

「あぁ、やっと一週間終わってくれた~・・・」

と日頃の溜飲も下がる思いで、一息つくことができる。

月曜日の訪れは、精神の休息。

私はその、世間でいうところの「一週間の始まり」に、心の置き所を求めているのである。

 

そんな月曜日に、必ずと言っていいほど決まってすることがある。

それはリビングに飾る花を買って帰ること、そして自分へのご褒美に1切れ3000円のヒレ肉を買って自宅で調理すること、でもなく。

「いつも購入している1瓶900円(700ml)のブラックニッカを、1瓶1,330円(700ml)のリッチブレンドにグレードアップすること」である。

私にとっての「プチ贅沢」とは所詮この程度。

キラキラ界隈に住む同年代の女子たちは、どうやらプチ贅沢やご褒美といえば

・プチ旅行

エス

・リッチにホテルランチ

といったところらしい。(ネット調べ)

コンビニへ切らした酒を買いに行った際、ついでに週刊誌を買うことがたまにある。

その横に、例えば「横浜ウォーカー」なんかが陳列されていたら気になって手に取ってしまうのだけれど、「キラキラ」した内容に「イライラ」した挙げ句、やはり胸焼けして棚に戻してしまう。

キラキラに関して言えば、まったく憧れないわけではない。

もちろんアウトドアもいいなと思うし、たまには世間に「女子」と呼んでもらえる年頃のうちに、キラキラキャッキャと作り物のチープな日常を刹那的に生きてみるのも良いのかなとは思う。

しかしいざとなると妙に気持ちが萎えしぼみ、妄想のまま終わる。

その妄想さえも苦痛になり、どう考えたってキラキラしに行くよりも部屋で一人、酒でも飲んでいた方が断然心が休まるのである。

友人には

「それなら一人飲みでもちょっとプチ贅沢して、デパ地下でデリとか買ってきたらいいんじゃない?」

と言われたが、そもそも私はハイボールを作ったり、いちいち氷を用意するのさえ面倒がった挙げ句、ウイスキーをストレートで飲むようなガサツな女なのだ。

もちろん面倒なのでチェイサーもなし。

第一キラキラ女子が大好物であろう「風呂場にキャンドル」なんて絶対に持ち込まないし、化粧品も酒を買うついでにドラッグストアの一番安物で十分。

化粧品を買うためだけにカウンターへ出向く女心が、イマイチ理解できないでいる。

その上更に、デスクの上にブラックニッカの空き瓶をコレクションするのが、唯一の趣味になりつつあるような女である。(捨てるのが面倒なだけです。)

そんな女がわざわざデパ地下になんて行くわけがないし、そもそもそこに投資するくらいならば、悩まずいとも簡単に酒をグレードアップするに決まっている。(少々ケチです。)

そんなことを幾度となく繰り返していくうちに、いつしか「私はどうやってもキラキラした女にはなれないのだ」とようやく諦めもついた。

それから酒の量は少しばかり増えたが、アルコールは日々蓄積されていく倦怠と心の凝り固まった部分に適度に染み込み、均一にふやかしてくれることを知った。

時折考え事をしている時に、薬理的に酒を飲むこともある。

適量のアルコールは、その時の気分を増幅させてくれる作用があることも相まって、酒が染み、ほぐれた脳から論理の枠を外れた思考が生まれることも少なくない。

つい最近までまったく飲み慣れなかった酒だが、わりとうまく付き合えるようにはなってきたと思う。

 

そして今日も、正露丸のような香りのする1瓶900円ブラックニッカ クリアで淀んだ心を消毒し、いつかは「ブラックニッカ ディープブレンド」にランクアップしたいなぁなどと、浅い夢を見るのである。

なんとこちらは甘やかな香り、ビターな余韻らしく1瓶1,500円(700ml)。

恐らく翌週月曜、自分の今週の頑張りと摂取した酒の量を換算し、陳列棚の前、いささか悩みの鎌首をもたげるケチな女が私である。

 

 

トラットリアの夜明け頃

先月、神奈川県某所、とある異性と、とあるレストランで食事をしてきた。

食事に出かける前は、彼の部屋にいた。

更にその前には、近所のスタバで同じコーヒーをテイクアウトして、

「全然冷めないから、いつまでたっても飲めないなぁ。」

なんて無意味に困ってみせた。

実のところ全くもって困ってはいなかったのだけど、どんなアプローチをすれば、どんな表情でどんなリアクションが返ってくるのか、それはそれで毎度楽しみなもので。

しかし浅ましい猫なでな私に対する彼の返答は、そんなセンチメンタルを抱えた下心を見透かしてか

「ねー、スリーブあっても熱いよねー。」

と、だいぶ物足りなさを感じる、そっけない返事だった。

それでも、卸したてのヒールを履いた私に歩幅を合わせてくれていたのは、その後の穏やかな声色からも十分に伝わる。

こういう些細なやり取りを楽しめるようになったのも、いつからだったろう。

昔は喧嘩ばかりだったけれど。

日々の倦怠に心が潤い、滴下したその波紋からたおやかに揺れる感情は、実に胸が膨れるものである。

それなのに日頃互いになかなか時間が合わないものだから、すれ違いもいいところで。

そんなときは、いつも情緒が微かな乱気流に吹かれ、少しだけ心のささくれがめくれるような痛みが走る。

気のせいかな。

それに少し大袈裟かなとも思うけれど。

部屋に帰って来て、ソファに腰掛ける彼に話しかけようかかけまいか・・・う~ん、話しかけるとすればどんな声色で、どんな表情で?何を話せば・・・

彼はいつでも考え事をしていて、例えご機嫌であっても少々不機嫌に見える節があるので、一緒にいると実に気を揉むことになるのである。

そんな彼を見て久しぶりの困惑に歯痒く悩む私は、右手でかき上げた髪を無神経にもて遊ぶしかなかった。

左手には彼と同じブレンドコーヒー。

冷えてきたスリーブと、困惑からくる捨て鉢な気持ちがいやにダブる。

無言の時間がぎこちなく感じるほど久々だった2人の空間が、なかなか暖まらない部屋と妙にマッチしていて。

その空間にいよいよ暖房の軽い唸りが響いた頃、彼が地元のフリーペーパーをめくりながら、唐突にこう切り出した。

「ん~、たまには一緒に美味しいものでも食べに行く?ご馳走するよ。

最近は、お互いに顔合わせてゆっくりご飯なんてことも無かったでしょう。」

同じ時間を共有していても尚、すれ違いに煩悶していた気持ちに反して、心が踊った。

卸したてのヒールに再び足を入れる。その日は久しぶりにとても暖かかった。

海が真昼の陽を受けて青々と浮かび上がり、水面に砕けた太陽が、風の動きに合わせて微動に震える。

その海の青は、曇りのない胸の奥の安息を表した、「今」そのものの色だった。

しかし道中、突如溝に引っ掛かりヒールが脱げた。

私はどうしてかこういう事があると、すぐに「幸先が悪いな」などと思い、羞恥と共に少々気をふさいでしまう面倒な女なのである。

彼はそれをまたもや見透かして、「待っててー。」とだけ言い、そのヒールをこちらまで持ってきて「はい、どーぞー。」と履かせてくれた。

そして

「何でここ歩くって分かってるのに、ヒールなんて履いて来るんだよー。」

なんて小ざっぱりと意地悪に呆れる笑顔は、かつての少女漫画のように

「わざとだよ?」

と言うに相応しい展開だったのだけれど、結局ドキドキしたりロマンスが始まるなんてことは全くもって無かった。

 

何故かと問うに実のところ、その「とある異性」とは兄のことでありまして、単に互いの暇つぶしに腹を満たしに行っただけのことなのである。

なぁんだ、そう言うと一気につまらなくなりましたね。

無論、「すれ違いに煩悶していた気持ちに反して、心が踊った」のはロマンスでも何でもなく・・・まぁ、何ていうか、人の金で欲を満たせるっていうのは、本当に気持ちの良いことの例えです。

食事に行ったレストランというのは、昔からもう何度も足を運び通い慣れた店であるし、いわゆる食べ慣れた「お袋の味」が名状し難いっていうソレと同じで、今更もう書くことも何もないのだけど。

しかし、かくいう私も今現在、どういうわけかブロガー(?)の端くれでございまして、故に筆を執るに至った次第である。

ここまで約1700文字、「艶な話」を描いてきたにも関わらず、なんと今日はこれでもグルメレポなんですの。(ここまでで記事一本書けたんじゃないの?)

 

 

最近は互いに忙しく、なかなかにご無沙汰であったが、よく兄と行くのが七里ヶ浜駅から徒歩5分の所にある「アマルフィイ  デラセーラ」である。

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カジュアルな一軒家レストランが、親しみのある心落ち着く雰囲気。奥に店内よりも広いテラスあります。

むしろオープンテラスがメインだし、冬でも混んでいる。

湘南エリアではすこぶる人気で、土曜日曜、ピーク時は一時間以上並ぶので早めに行くのがベスト。

ちなみに兄と私、互いに色んな店には行かないし、気に入った店があるとそこにばかり足繁く通う傾向にあるため、外食と言えば大抵いつもココ。

 

 

まずこの店は断崖絶壁の上に建つので、駐車場から急な階段をぐんぐん登って行かなければならない。

高齢者の方や妊婦さんは充分に気を付けてください。無論ヒールの女もどうかと思う。(私のことです)

しかしながら、登りきった苦労がチャラになるどころかお釣までもらえるのが、この店の最大ポイント。

(ただ断崖絶壁の上で吹きさらしの為、強風時はテラス席に限り、ゲストの受け入れを制限している場合もあるので要注意。)

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提携駐車場を出たら、早速江ノ電と遭遇。幸先が宜しく大変結構。

 

 

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これは帰り際に撮ったものなんだけれど、先ほどとは反対位置にいます。

こんな感じで江ノ電の踏切を越え、写真とは逆方向にどんどん登って参ります。

エゲツないほどの急坂を見かねて私のバッグを持ってくれている、とある異性が写り込みました。

 

 

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早くも困難。

先ほどの画像から90度回転しただけなのに、何とそこには段が申し訳程度に見えるほどの急な階段・・・

これだけ見るに、いささか隠れ家っぽいハイカラな雰囲気ではあるが、店自体はどちらかというとルーラルなトラットリアに近く、想像以上にその敷居は低い。

 

 

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こちらが道中、ハマった溝。

ヒール女子にとっては網の目を歩くような所業で、数センチおきにトラップばかりですよ。

故にヒールの女は要介護。

ちなみに左のコッペパンみたいな靴は、介護してくれた兄です。

まぁ、でもこういうのも本来

「きゃ~、怖い〜。歩けない〜・・・(チラッ)」とか「ほら~、おいで~。(まだ付き合ってもいないのに手を繋ぐ)」

などという謎のアピ~ルをロマ〜ンスの起爆剤にしたい、そんな浅ましいベストカップルには大変結構かと思いますよ~~。

 

 

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そして最後この階段を登り終えたら、とんでもない高待遇が待っている。(秘密の花園感が本当にたまらない・・・)

 

 

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やっとお店に着きました。

そもそもこの店にたどり着くには、如何なる星の下に生まれたとしても、幾多の困難を乗り越えて行かなければならない。

天国への階段は想像以上に険しく、生前の所業が試されているかのようである。

ちなみに駐車場から店まで徒歩2、3分。(ヒールの場合を除く)

「何だよ短いじゃん!」と思ったあなた、嫌いじゃないです。

 

 

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待ち合い席から見た景色。

食事が無くとも、最早これが最高の前菜。

 

 

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待ち合い席の引き。

画面右側に見えますのが、言わずもがなの我らが江ノ島

ちなみに奥のテラスからは180度相模湾を一望、堪能できるパノラマオーシャンビュー。富士山も見えます。

ここを目的地として湘南に足を伸ばす価値は、大いに有り。

 

 

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兄も私も、毎回上段右側記載の「アマルフィイ」コースにメインはパスタが定番。(見えにくくてゴメンナサイ)

ピザも種類が多く、生地はクリスピーで女性でも軽く食べられるが、もちもちしていて満足感も高い。そして男性でも満足出来る大きさ。

ちなみにそれぞれ単品の値段を考えると、コースの方が圧倒的にお得です。

 

 

前菜

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いつも思うんだけど、前菜だけでもポーションは重ためでだいぶ美味。

まだまだ序盤なのに、早速「嗅、視、味」のベストバランスが、お口の中で一体となり隈なく広がる。

最悪これと白飯があればそれでいいですよ、文句言わないもん。最早満足。

ちなみに兄は、真鯛を口に運び「野菜おいしいー」と言っていた。

ラグがありすぎて伝わらねえよ。

 

 

ミネストローネとオレガノのフォカッチャ(自家製)。 

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フォカッチャについては、ベーカリーの本格的なフォカッチャというよりは、もう少しだけ素朴で家庭寄りな印象。

オレガノがメインなのか、オリーブオイルが控えめでオリーブの風味が少々弱いように感じるが、それはそれで万人受けするかなといった感じ。個人的には追いオリーブしたい。

オレガノのややほろ苦く清涼感のある風味が、ミネストローネにとても良く合っていた。

しかしながら「うーん、これは実にオレガノ」と思いながら食べたことは一度もない。

ミネストローネは、少々塩分キツめに感じた。

これもどちらかと言えば、家庭的な素朴さを孕んだ味で少々の物足りなさは残るのだけど、この後のメインのボリュームを考えるとちょうど良いかも。

トマトの酸味と野菜の旨味はバッチリです。

コースの総評として考えると、この素朴さもまたベストバランス。

 

 

そしてあろうことかここにきて、隣のテーブルに腰掛けるキャピキャピ中年カップルのテンションが非常に煩くて困った。

キャンキャン声が脳天にまで響くし、第一、声がデカすぎてこちらの味覚が脳まで回らねえよ、と思いチラ見すると、テーブル上にワインが3本置かれていた。

真っ昼間から酔ってんのかよ。なるほど、許す。羨ましい〜。

 

 

メイン 魚介の旨味たっぷりショートパスタ

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パスタが見えなくなるほどの、シーフードのボリューム。パスタはショートパスタです。

パンチのある見た目に反し、ほぼシーフードの出し汁かと思うほどの優しい味わいで、全くクドくないにも関わらず満足感がエゲつないのに永遠に食べられそう。(錯乱)

ミネストローネとフォカッチャに対し、このパスタは「正統派イタリアン」な味で、当然魚介も新鮮だし満点期待通り。そしてその名の通り「旨味たっぷり」。旨味の境地。

少々ニッチなポイントかもしれないが、エビが丁寧にグリルされているので尻尾まで食べられるのも、個人的に毎度とても嬉しい。(お行儀が悪くてゴメンナサイ)

ちなみにこのパスタに限りコース料金に+600円(!)なので、極めてブルジョワ向け。

うちの兄は「庶民レストランが庶民を煽りにかかるとか、悪の所業すぎてなんかねー。二人で+1200円て!これは庶民を煽るヤクザのパスタ。」と言いながらも、綺麗に完食いたしておりました。うんまいもんね、本当。

ちなみにアイスクリームを女性の間では「老化を進めるかわいい悪魔」と言うみたいですね。それに比べて何だよ、「庶民を煽るヤクザのパスタ」って。人道にもとりすぎてもう素直な気持ちで食べられないじゃん。

 

さてここで一旦、当記事をご覧くださっている読者の方々におかれましては、そろそろこの積極的な飯テロ政策に恨みの念がふつふつと沸いてきた頃かと推測します。

そんなあなたは今すぐ拳を硬く握りしめ、正直に画面の前に差し出してくださいね?

恨みっこなしの一発勝負で行きますよ。

せ~の、ジャンケンポン!!(なにゆえ?)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ま、負けた~!!

ふふふ、優しいでしょう?

だからちょっと長いけど、最後まで読んで。お願い~。

 

いよいよ最後のデザート。いちごとチョコレートのケーキ。(食後のドリンクも付いてます)

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私の貧乏舌ではいかんせん冷凍っぽく感じて、さして美味しくはなかったんだよなぁ。

唯一のコメントは、「周りに散らかっている赤のカリカリが非常に酸っぱい。」

しかしこの酸味で全体的な甘味が締まります。

バランスにおいては「さすが」といった感じだし、そもそものシンプルさもイタリアドルチェの特徴かなと。

だがここの店のドルチェは、当たり外れが極端に激しい印象が少し残念。

ちなみに兄は、始めこそ「俺これ好きー。」と言いながら貪るように口に運んでいたものの、3口目くらいから突如「これ、何。なんかスポンジが水っぽいわー。」とペースダウン。情緒不安定で無常に響きありすぎ。

画像は無いのだけど、以前足を運んだ際に食べたパンナコッタは非常に美味で、「これだけの為に来店したい!」と思えるほどでした。

食後にホットコーヒーをお願いしたのだけど、苦味を押す今風なコーヒーではなく、こざっぱりとした感じが好印象。

料理の余韻を楽しみたいので、これくらいライトなコーヒーは「締め」の口直しには持って来いな飲みやすさで、大変美味しゅうございました。

 

 

テラス席
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即席感満載なテーブルメイキングでチープ感が否めないし、更には潮風の影響も相まってか建物やテーブルがやや老朽しているが、それもまた一興。

前述した通りこういった大衆店は、とても美味しいものが食べられる反面、気取っていないので大変足を運びやすいし、この雰囲気が大局的に見てどういうわけか全てと相乗効果を発揮するんだよなぁ。大好き。

いささか私見を述べると、本来ならば湘南っていうのはアーバンなリストランテよりも、こういった趣のあるオープンな店がもっと建ち並ぶべきなんですよ。

だってこのロケーションと、「味」があればもう何もいらないでしょう。

余計な小細工無しでこの潔いシンプルさが、ごまかしやハッタリが無くて本当に大好き。

そしてこの店に至っては、「余計なところに注力していないですよ」感が、料理に対するプライドを感じる。デザート以外の話デース。

更にはロケーションに、眼福における責任の所在を全てぶん投げにかかってる。

料理に自信無かったらそんなこと出来ないでしょ、というのが率直な感想だし、俺の仕事は「視覚」じゃねえ「味覚」だ、と言われても「ですよねー!」ってカンジ。

極めて男前な店だし、もう本当に「湘南住民の実家」なの。

そんなことだから、ト~~キョ~~~にお住まいのイミテ~ションブルジョワインスタ女は勘違いしないように。(と、ウザイ常連客は申しております。)

しかしながら遠方から訪れるファンも多い、魅惑のイタリアンなのは確かです。

 

ちなみに周りのお客さん達、いつ行ってもほぼ高確率でみんなピザを食べてるんですよね。

ウエイターさんも、毎回メインをパスタにする私たちに、ほぼ毎度といって

「シェアも出来ますから、どちらかのメイン料理はピザでも良いかと思いますよ。」

みたいな事を言ってくるので、こらこら常連の顔と「いつものやつ」は覚えなさいよと。全く学ばねえやつだなと思っていたのだけど実はここ、ピッツェリア(ピザ専門店)なんですよ。そりゃピザも勧めるわ。

そもそもの所で、店の外壁にも「ピッツェリア」と書かれてあるしね。まったくもう。

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分かってはいるのだけど、あまりピザを食べる習慣がないので、やはりパスタの方が好き。

そしてこの店はピッツェリアゆえに、コースも「肉料理・魚料理」などのセコンドピアットは無し。あくまでピザ・パスタがプリモでメイン。どちらを選んでも全く外れは無し。

ピザはやはり湘南といえばで、「七里ヶ浜」という名のしらすのピザが満点のオススメ。

ご馳走様でした。

 

そして帰り際の駐車場、膨れた腹に纏うベルトの位置を正しながら、ふと兄がこう言った。

「いつも見るここの景色って、意外と夜明けに見たことないでしょう。

実は夜明けにここから見る朝日って、格別なんだよ。

水平線が驚くほど浮かび上がって、あぁ地球にいるんだよなって気になるんだよねー。

こんなに広い水平線と空の曖昧な境界線が、何故だか奥行を増すんだよねー。」

なるほど・・・

奥行を増すであろう地球の境界線に対し、「ねー」という抑揚のない、生彩を欠いたメカニカルな兄の声色に少々の違和感を覚えながらも

「ではいつかの夜明け頃、またお互い時間が合うときにこのレストラン(駐車場)の前でねー。」

そう約束を交わし、互いに帰路に着いた次第でありますー。

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気分はまさにアマルフィ海岸。

「デラセーラ」とはイタリア語で「夕日」を意味し、その名の通りここから眺めるサンセットも極めて美しい。

 

 

余談

無論、帰り道も恐ろしいまでの下り坂。

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皆さん飲み過ぎとヒールには注意ですよ。ではまた。

 

 

行った店

ホラー映画鑑賞時の安易な「キャッ」についての考察

ついこの間の深夜、何年ぶりか自宅で1人ホラー映画を見ていた。

思うのだけど、こういうときに「キャッ」とか言って抱きつくような女性と、それに対し当然といった感じで髪を撫でてやれるような男性がモテるのでしょうか。

まったく有り体に言えば、私はこれまでそういう男女のことをいささか小馬鹿にして生きてきたわけだけど、実はそういうのはいかがなものかという気持ちもなくはない。

当然倫理上、人を小馬鹿にするとかそういうのは良くないという認識のもとに生きているし、更に言えばそういう認識がありつつもやっぱり小馬鹿にしてしまう自分を「性格が悪いな~」と自覚はしている。

この歳にして尚独り身の女がこういうことを唐突に言い出すのも、少々薄気味悪いななどという自覚も勿論ある。

しかしちょっぴり俯瞰して見てみると、そういう「キャッ」で安易に男性に抱きつけるような女性を少し残念に思ってしまうし、更にそれに対し安易に対応できるような男性って、そういう女性以上にちょっと頭が悪いのかな~なんて思う。

自分が男だとしたら、最高に盛り上がる怖いシーンで「キャッ」とか来られた日にはこっちが「キャッ」だし、映画ってそもそもが世界観を含めて楽しみたい。

例えばストーリーっていうのは点があちこちに分布していても、線で繋げればある程度は回収が出来るわけで。

しかしながらその世界観っていうのは、残念ながら一部分だけでは分かり得ないものでして、オープニングからエンドロールまで一気に観て、そこで初めて残響の繊細な余韻も含めた無二の世界観を描けるのかなと思う。

物語のハイライトに向け丹精して育てたボルテージを安易な「キャッ」によって阻害してしまうというのは、ある種同調圧力に近いものがあると見なすし、ちょっと残念だなと感じてしまう。

何度も言うようだけどホラー映画の醍醐味っていうのはそういう「キャッ」な部分にあるわけで、相手の「キャッ」な部分を自分都合の「キャッ」という極悪非道他ならない同調圧力によって安易に萎萎させてしまうはいかがなものか。

そしてホラー映画はその「キャッ」の部分で立派に職責を果たしているわけで、そういう職責を自分都合の「キャッ」で安易に踏みにじるっていうのはどうなんでしょうね。

ちょっと浮かばれないかな。

ついつい同情してしまう。

互いに持つ世界観は違って当然なわけで、2人同じ時間に同じ空間で同じ映画を観ていたとしても、私は相手が抱く世界観を大いに尊重したいし、大切にしたいと思う。

そしてエンドロールが終わったのちに、現実世界にて互いの世界観を公開しあい、更には繊細な感情の動きまで含めて共に分かちあいたい。

その方が世界が広く見えるような気がするし、一緒にいることによって逆に相手の片目を潰してしまうことになるのはやはり理想ではないかなぁ。

例えば戦国時代に生きていたとしても、「キャッ」とか言って相手にすがるような女にはなりたくはないし、やはりそこで相手の男性には

「共に戦い、そして涅槃で会おう。」

みたいなことを言われてみたい。

で、涅槃で初めて互いの功績を称えあう。

こういうのがロマンチックじゃないですか?

パートナーってそういうことなんじゃないかなって。

一緒には居るんだけど各々の世界ももちろん大事で、そこについて温度差を埋めようと一方的に同調圧力を振りかざすような、そんな無粋な女にはなりたくないなぁ。

そして出来れば持ちつ持たれつで行きたいし、女っていうよりも自立した一人の人間として見てほしい。

まぁあざとい女と底が浅い男にとっては、そういう「キャッ」というのが恋のマテリエルとして役に立つものなのかな。

ちょっと理解が難しい。

ようは、あまりベタベタしすぎているのは好みじゃないし、相手を尊重するってそういうことなんじゃないかなぁってただホラー映画を観ただけなのにこういうことを考察してしまうから未だ独り身なんだということは承知してます。

ところで最近、矢沢永吉私設応援団の総会長を追放したというニュースが流れたけれど(ビックリしましたよね)、かっこよかったですよね。

一部のファンを優遇しないというか、ファンはあくまで皆平等という彼らしい一本筋が通っていたのかなと。

彼は以前、自身のライブについて

「やる側のプライドと聞く側のプライドが合わさってこそ、最高のライブが成立する。」

と言っていたのだけど、これからのライブはやる側はもちろん聞く側にもプライドが無きゃ駄目なんだということらしい。

それを踏まえた上で、

「俺はお客さんに自分と同じノリでやれとは言わない。それを言ってしまう奴がいたとすれば、それは俺のライブじゃなく、そいつのライブになっちゃうワケ。」

とも言っていた。

そして、その圧力によって人を不幸にさせたビールは不味いだろと。

しかしそれでも不幸にさせた当の本人は「お祭りなんだからいいだろう」と、どういうわけか美味い酒を飲むんだよなぁ。

全員が全員同じ温度でというのは至極無理な話で、じゃあどうすればうまく共存出来るのかというと、それはやはり互いを尊重し合うしかないわけですよね。

決して圧力を振りかざさず温度差を分かち合い、誰の世界観も素晴らしいものだと認めること。

もちろん矢沢永吉は冒頭で述べた男女を小馬鹿にするような、器の浅い人間ではないと思うのだけど。

これって、ホラー映画の「キャッ」にも言えるんじゃないかなぁ。

今冬、みかんに学んだオババの手口

なんていうか、近頃、心なしか少しばかり太った気がする。

それを母に指摘されたのは、つい先日のこと。

うちの母は「THE・ニッポンの主婦代表」みたいな感じの母で、一歩外へ出ると平気で「イイ所の奥様」みたいな不敵な面構えで颯爽と歩くが、内へ入れば「ただのゴシップ好きな野次馬オババ」である。

故に、自分のことよりも断然人には厳しいし、なにより人の色恋話や艶な噂が大好物なのである。

まったくもって迷惑な話。

 

先日実家へ帰った際、いつものようにソファでゴロゴロしていた。

雑作なくテーブルに開かれたままの、一冊の雑誌。

母はそれを見つけ、たった一冊なのに

「もう~、またテーブルの上、ごっちゃ満開にして~!」

と大袈裟に言いながら、いつもソファの脇に鎮座しているマガジンラックに片付けた。

その時、ちょっとだけ不機嫌に皺が寄せられた眉間を更に曇らせ、こう言った。

「え!マチ子さん(うちの母は、家族全員を「さん」付けで呼ぶ)、ちょっと胸おっきくなってない?

っていうか、太った?!

あなたがストレス抱えているようには見えないし・・・ストレス太りではないわよねぇ。

あぁ、分かった。もしかして今、幸せなのね。ふふふ。」

まったく誰が見ても考えすぎだし、余計なお世話である。

太った、痩せた、胸が大きくなった、そんな外見に対する見解は、女性にはさぞかし付き物な会話だろうと思う。

しかしそこから人の「幸・不幸」にまで思考が及ぶというのは、私からするとやはりお節介な「オバサン」なのである。

私も私で、太ったことについては思い当たるふしがあったから何も言えずにいると、お節介オバサンは「妖怪深情け悪女」に進化し、私を必要以上に詮索し始めた。

「好きな人か彼氏でも出来た?」

「幸せ太りってことは両想いよね?」

「たぶん片想いなら、太りはしないと思うなあ~」

などと終始いやらしい笑顔で、自身の見解を交えながらニコニコ聞いてくる。

これは相手が「オヂサン」なら、事案である。完全にセクハラ。

しかも誰も座れなどと頼んでいないのにも関わらず、目の前に座りテーブルに両肘をつき、さながら乙女のようである。

しかし、そのものずばりで度々繰り広げられそうになるいわゆる「恋バナ」に、私は毎度

「うん~、まぁ・・・」

などと今度はスマホに目を逃がし、どっちつかずの返事でかわすというのがデフォルト。

そしてその度に「奥様」というある種のステータスに重きを置く母に向かって、心の中で「ふんっ!」と鼻で笑うのである。

何が「恋愛」だ、何が「奥様」だあ~!

これが私流の、せめてものやり返し。母には逆らえないので。

 

そんな母に毎年聞かれることがある。

それは、「今年はみかんの皮、どうしてる?」ということ。

うちの母は、みかんの皮を捨てずに再利用する。

乾燥させて料理に使用したり、はたまた粉末にしてお茶にしたり。

それでも使い切れなかったら、掃除に使用するのがいささか定番。

私もいつしかそれに習って「アホくさ」なんて思いながらも、やはり棄てられずにありとあらゆる手段を駆使して使い切るようにしている。

何ならそういう貧乏くさい「謂れ」を未だ守ってちまちまとやっている自分がとても好き。

ただ、今冬は早速爪が黄色く染まるまでみかんを食べすぎたので、到底自分だけでは皮を処理しきれないと思い、「余ってるならちょうだい~!」という母に寄付をした。

しかし、思いがけないことが起きる。

なんとその際

「わ~!いっぱいありがとうね!掃除にいっぱい使うわね。

でも何だか申し訳ないな~。

そうだ。お餅がいっぱい余ってるから、お礼にお餅あげる!

持って帰って!早く食べきらないと、カビちゃうからね~!」

と、一人で食べきるのが早速不安になる量の、手つきの餅をたんまり持たされたのだ。

いや、普通ならば捨てるはずの「みかんの皮」が、食べられる「餅」に進化したのだから、これは大変な功績だろう。

第一、食べ物を粗末にせず、更に自然を尊重するという行為はとても理にかなっている。

そしてその結果として、人が生きて行く上で必要不可欠である「血となり肉となる」食物が与えられるというのは、本来ならば相当な徳を積まなければ得られない華々しいキャリアといっても過言ではない。

ただ、その華々しいキャリアと引き換えに、それから私は「餅がいつカビるのか分からない恐怖」と連日、いや毎秒戦うハメになった。

みかんの皮は再利用するくせ餅はカビさせて捨ててしまうなど、本末転倒もいいところで、やはりうちにとっては絶対的なタブーなのである。

冷蔵庫の中でレゴブロックのように積まれた餅に、辟易している場合ではない。

醤油、きなこ、あんこ、お雑煮。

始めこそ年に一度しか食べない餅に後を引かれ、妙味のある味に憎きを抱くくらいには日本の伝統食や先人の知恵に感謝するほどであった。

しかし朝、昼、晩とありとあらゆる「味変」を用いて食す餅も、もう限界。

最終的には

「みかんの皮みたいに、餅も掃除に使用出来ないだろうか」

などと罰当たりなことを考え出す始末。

餅が膨れるのと比例して重くなる腹と心。

日を追うごとに、何故か削がれていく食欲。

そしていよいよ、餅の甘みが感じられずに完全に無味になったところでようやく食べ切った。

  

以上が私が太った原因である。

お気付きだろうか。

頼んでもいないのに自分から非常識な量の餅を持たせ、

「早く食べきらないと、カビちゃうからね~!」

などと脅迫しておきながら、いざ人が術中にハマると証拠(私の場合は脂肪)を盾にし、人の感傷をわざわざエグってくる。

しかもイヤラシイ笑顔で。

そしてあまりに人の色恋に詮索が過ぎるので、母に持たされた餅が太った原因だということを白状すれば、返ってきた言葉はこう。

「え?確かに早く食べ切っちゃってねとは言ったけど、そもそも食べ切れないのなら冷凍すればいいじゃない。」

これがうちのオババの手口ですよ。

自分の思う成果が得られなければ、圧倒的な手のひら返しで突き放す。

そこには「慈愛」など生ぬるい言葉は存在しないし、さながら乙女のような面影もない。

そこにいるのは、やはり「妖怪深情け悪女」なのである。

そして私は膨れた腹太鼓を嗚咽で掻き消し、悔しさをバネに「妖怪深情け悪女二世」として飛躍するのだ。

まず、私が人をゆすりたくなったら、これからはターゲットに出来るだけ足の早そうな手つきの餅を持たせようと思う。

そしてテーブルに一枚の紙を広げ、その脇には朱肉と印鑑。

早速両肘をつきながら聞くのである。

「幸せ太りってことは、幸せなのよね?」

「そんなに私のことが、好きなのよね?」

「どうする?これから私たち・・・?」

これ、春が長すぎる世の女性たちは是非使ってくださいよ。

決行日前日、夜な夜な勇ましい音を立てながら餅をつき、汗水と共に目尻を垂らし餅を丸める姿は狂気そのもの。

餅の中に指輪が入ってたら完璧じゃないですか。

まずそのためには当然、みかんの皮の再利用法を伝授するのをお忘れなく。そこからがシナリオ。

みかんの皮を一剥きする度に、少しずつ少しずつ剥がれていく理性と化けの皮。

それに反して、瞬く間に厚くなっていく、面の皮。

そんな「自身の破壊」が頭の中で鮮明に再生された今日日、完全犯罪の幕開けである。

 

以上、今年のみかんはワケあって餅に変わり、「私の脂肪」と相成りましたことをこの場をお借りして報告いたします。

(借りるもなにも、私のブログだが。)